ESFP
Type Interview 8 / Type Story : フィル・カー (INTP)
はるみ:はじめてタイプに出会ったのは、いつ頃でしたか? フィル: おそらく1991年だったと思います。 タイプ記述の紙を渡されて、最初の一文を読んだときの衝撃は今でも覚えています。 たしか「私は、宇宙を理解したいという欲求を持つ深い思索者である」といった内容だったと思います。 「まさに自分だ!」と感じました。 「どうしてこんなに自分のことが分かるんだ?」と。 そこからですね、「自分は変わり者なのか?」とか「何かおかしいのか?」という思いが消えていきました。 「これが自分なんだ」「こういう特性を持っているんだ」「そして、自分のような人が他にもいるんだ」と実感したんです。 本当に目が開かれるような体験でした。 自分自身をそのまま受け入れるという意味で、とても安心できる経験でもありました。 はるみ:そのワークショップのファシリテーターはどなたでしたか? フィル: 名前はシーラかステラだったと思います。今でもどこかでお礼を伝えられたらと思っていますが、その後、転職もして連絡は取れていません。 はるみ:昔のニュースレターを拝見して、ご家庭がとても素敵だったと知りました。 フィル: そうですね。INFPのメリディス・フラーさんがいくつか人物プロフィールを書いていて、私もその一人でした。 私は6人兄弟の長男で、弟が3人、妹が2人います。クイーンズランド州のロックハンプトンという地方都市で生まれ育ち、8年間そこで暮らしました。 その後、父の仕事の都合で、同じくクイーンズランド州のタウンズビルに引っ越し、13歳の誕生日直前にブリスベンへ移りました。1965年のことですね。今年で、ブリスベンに住んで60年になります。 はるみ:プロフィールには、ご家族が全員Sタイプだったとも書かれていましたよね。お母さまはESFPだったのでは? フィル: はい、ESFPのタイプ記述を読むと、まさに母そのものです。いわゆる“パーティーガール”でした。 とても社交的で、誰でも巻き込むタイプ。弟が言っていたのですが、母はパーティーで人を部屋の端から引っ張ってきて、20年来の知り合いに紹介したりしていました(笑)。 音楽も好きで、ジョークを言うのも大好きでした。しかも、6人の子どもを持つ母親としては、なかなかきわどい冗談もありましたよ。 一方で父は、とても真面目な人でした。父のタイプを推測するのには時間がかかりましたが、1982年に58歳で亡くなった父は、おそらくISFJだったと思います。 控えめながら、当時のオーストラリアの男性らしく、仕事帰りに同僚とビールを楽しむような社交性はありました。 でも、何となくいつも少し緊張していて、社会的な評価や見た目を気にしていたようなところがありました。 決して偉ぶる人ではありませんでしたが、「家族にとって頼れる存在でありたい」という思いが強かったのだと思います。 そういう意味で、外向的なESFPの母と、内に秘めた思いやりを持つISFJの父。なかなか興味深い組み合わせですよね。 はるみ:ご両親に理解されていると感じていましたか? フィル: うーん、たぶん、あまりそうは思っていませんでしたね。学校の成績は良かったので、その点では両親もそれなりに誇りに思ってくれていたとは思います。でも、理解されていたとは言えません。 父は私のことを「教授」と呼んでいました。私は本ばかり読んでいる子どもで、科学っぽいことに興味を持っていました。読書が好きだったんです。 でも父はとてもスポーツマンでした。クリケット、フットボール、テニス――なんでもこなしていました。でも私は、まったくといっていいほどスポーツには興味がなかったんです。 はるみ:テニスについてはどう思っていましたか? フィル: 1時間をムダにするようなものだと思っていました。 テニスって、ただボールを打ち合って、どちらかがミスするまで続けるだけでしょう?「それのどこが面白いの?」という感じでした。 母の場合は、社交性がすべてでした。 さっき言ったように、ESFPタイプで、楽しい社交的な交流をとても大切にしていました。 母は私のことを「非社交的」と呼んでいました。 パーティーのときでも、私は本を読んでいるか、自分の部屋にいたかったんです。 だから母としては、私を手首をつかんででも引っ張り出して、社交的なことを一緒にしたかったんでしょうね。 それに、私には5人の弟妹がいて、それぞれ個性もタイプも違います。 一番上の弟は、たぶんESTPだと思います。 とても愛嬌があって、女性にモテるタイプ。 いわゆるやり手というか、ちょっと法律のギリギリを攻めるようなところもあるタイプです。 その次の弟は、おそらくESTJですね。スポーツクラブの会長をやっていたり、とてもまっすぐな性格の人です。 この二人とは年齢が近くて、ひとりは私より1年半下、もうひとりは3歳下です。 妹は私の5歳半下。 彼女もESTPか、そんな感じかもしれません。 人生に対してわりと自由なスタンスで、物事をはっきり言うタイプです。 一番下の弟は、私より8歳年下で、たぶんISFPですね。 そして一番下の妹は、10歳年下。 彼女はたぶんISFJで、現在は理学療法士として働いています。 […]
Type Interview 5 / Type Story : メアリー・マクギネス (ENFP)
はるみ: ENFPのベテランタイプトレーナーとして、タイプの世界に足を踏み入れたばかりのENFPにどのようなアドバイスをしますか? メアリー: もしタイプに関する仕事をしたいのであれば、きちんとしたトレーニングを受けることですね。そして、何をするにしても、しっかりとやること。 世の中には、手を抜いたり、簡単に済ませたりする人が本当に多いと思います。短期間で、手軽に終わらせようとする人も多いです。 でも、しっかりとした仕事をすれば、人々はそれを評価し、価値を感じてくれます。そして、あなたを推薦してくれるようになります。 私はこのビジネスを始めて最初の20年間、一切広告を出しませんでした。 すべて口コミだけでした。 最終的には、毎年20の認定プログラムを運営するまでになりました。 1つのプログラムには少なくとも20人、多い時には35人が参加していました。 もう一つ、ENFPにアドバイスしたいのは、財務管理に気をつけることです。 ENFPは、つい他の誰かにお金の管理を任せてしまいがちです。 その結果、使いすぎてしまったり、マーケティングを忘れてしまったりすることがあります。なぜなら、私たちはもともと整理整頓が得意ではないからです。 はるみ: タイプについて、誰から学びましたか? メアリー: 2人の重要な先生がいました。ノエル・デイビス と マーガレット・ハーツラー です。 私の最初のタイプの先生の一人は、INFJのノエルでした。彼はオーストラリア出身で、数年前に亡くなりました。 ノエルは「マリスト・ブラザーズ」というカトリックの修道会に所属していました。 1960年代、70年代、80年代のオーストラリアでは、多くのカトリック教会の修道士、司祭、修道女たちが学校で教えていましたが、彼らは教育大学で1年間しか学んでいないことも珍しくありませんでした。 そこでカトリック教会は、自分たちの教師を海外へ派遣し、大学院レベルの教育を受けさせることを決めました。 多くの教師がカリフォルニア大学バークレー校やシカゴのロヨラ大学に留学しました。 海外で彼らはマイヤーズ=ブリッグス・タイプ指標(MBTI)に出会いました。 特にバークレーではデイヴィッド・ケルシーが気質理論(Temperament Theory)を教えていたこともあり、MBTIが広まりました。 その結果、多くの教師たちはMBTIの質問紙や関連資料を持ち帰り、自分たちのコミュニティや学校でタイプ論を教え始めました。 これがオーストラリアでタイプ論が広まったきっかけです。 ノエルもカリフォルニア大学バークレー校に留学し、当時は公式な認定プログラムはなかったものの、MBTIの質問紙を購入することを許可されました。 彼はタイプ指標(MBTI)を使いながらワークショップを開催し、ユングの『心理学的タイプ』の詳細な知識を取り入れていました。 ノエルは常に学び続け、各認知機能について非常に深い理解を持っており、他の誰よりも早い時期にこれを教えていました。 はるみ: 修道士になった人々には、特定のタイプの傾向がありましたか? メアリー: どんなタイプの人もいましたが、特にセンサータイプ(S)や、SJ・SFJタイプの割合が多かったです。 第二バチカン公会議(Vatican II)では、教会の近代化が進められ、その一環として教育の充実も図られました。 その結果、多くの修道士や修道女が宗教的な生活を離れ、一般社会に出るようになりました。 こうした人々の中には、MBTIを学び、ビジネスの世界に進んだ者も多くいました。 私自身もタイプ論を教えてしばらくした後、2週間のリトリート(修道士向けの研修)に参加する機会を得ました。 そのうちの3日間はタイプ論の授業がありましたが、私はその内容にすっかり魅了されました。 私はノエルたちが開催していたいくつかの講座に通い始めました。 そして1985年のある講座で、アメリカのType Reporterという雑誌を手に取りました。 そこに、マイヤーズ=ブリッグス・タイプ指標(MBTI)を使うための認定プログラムに関する小さな広告が載っていました。 これが、私にタイプを教えてくれたもう一人の人物、マーガレット・ハーツラー(ENFJ)との出会いのきっかけでした。 彼女とキャサリン・マイヤーズは、ちょうどこの認定プログラムを始めたばかりでした。 それまで、MBTIの認定プログラムは存在しておらず、指標を購入できるのは心理学者だけでした。 しかし彼女たちは、心理学者以外の人々にもトレーニングを受けさせ、指標を使えるようにするために、このプログラムを始めたのです。 私は興味を持ちましたが、アメリカまで行って受講することは考えていませんでした。そこで、メールもなかった時代に、彼女たちに手紙を書いたのです。 すると2週間後、マーガレットの夫ゲイリー・ハーツラー(ENTP)から電話がかかってきました。 彼はこう言いました。 「こちらに来なくていいよ。我々はまだオーストラリアに行ったことがないんだ。ぜひ行ってみたい。」 […]